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1942年3月に日本によってオランダの植民地主義者が追放された後、日本政府は、将来のリーダーを教育・訓練し、新たな占領者である日本を支持させるために、現在のインドネシア諸島の各地から若者を送り込みました。またビルマ(現ミャンマー)、マラヤ(現在のマレーシアとシンガポールとブルネイ)、フィリピン、ベトナム、タイからも多くの若者を集めました。このグループは、南方特別留学生と呼ばれています。彼らは1944年から1945年にかけて日本に渡り、外務省が設立した「国際学友会日本語学校(International
Institute of Japanese Language)」という施設で学び、東京の目黒と新宿の寮で生活しました。残念ながら、彼らは日本に着いてまもなく、充実した学生生活を送ることなく、混沌とした悲惨な状態に追いやられました。留学生の中には東京を襲ったB-29の爆撃や広島の原爆の犠牲となって亡くなった者もいます。
これら2つのグループの留学生たちの多くは、勉学を終えるとインドネシアに戻り、やがて独立運動の指導者として軍事や外交の分野で力を発揮しました。その後、彼らは外務省や国防省、商工業省、保健省の高官となり、教育分野でも活躍しました。商社や製造会社を設立した者も何人かいます。言うまでもなく、彼らは日本で学んだサムライ精神や知識に基づく文化的価値観をもっており、それらを積極的にキャリアに取り入れています。
終戦後、こうした我々の先輩たちが戦争賠償計画の枠組みの中で日本の外務省と交渉した結果、1960年から1964年にかけて1,000人以上の学生と研修生が日本に派遣されました。彼らもまた最初の1年間は「国際学友会日本語学校」で日本語を身につけ、その後、北海道から鹿児島に至る各地のカレッジや大学でそれぞれ工業技術や商業、医学、芸術を学びました。学生たちは、インドネシア建国の父であり初代大統領でもあるスカルノから、独立後間もないインドネシアを広く紹介し、日本の一般市民との友情を築き、親善大使としての役割も果たすよう励まされていました。彼らは、賠償留学生と呼ばれています。賠償留学生のほかに、私費留学生や日本の政府機関から招待された留学生もいます。当時の日本は、あらゆる分野で欧米に追いつこうという機運に満ち、誰もが朝早くから夜遅くまで働いていました。当然ながら、留学生たちは勤勉の大切さを学び、生産技術や生産管理の能力を身につけて戻ってきました。彼らはインドネシア各地の様々な国営企業、病院、銀行、ホテル、大学などに配属され、またそのおよそ2割が日系民間企業の従業員となりました。さらにこの留学生グループは、空手、柔道、少林寺拳法、合気道など日本の武道に基づく伝統的な価値観を紹介し、その普及に努めました。
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